始まりはほんの些細な違和感だった。

いつもであればスルーしてしまうような、たぶん今までもそのようなことはいくらでもあったんだろうけどきっとオレが鈍感すぎてことごとく気付いていなかっただけ。でもいくら鈍感とはいえピアスを踏めば痛いし、そのピアスを見ればそれがいつも一虎くんがしている鈴のやつじゃなくて明らかに女物であることくらいは分かる。 「……何だこれ」 華奢なシルバーチェーンの先に、小さな雪の結晶のモチーフ。しかも落ちていた場所はよりにもよってベッドの横。

誰か、オレの知らない女がこの部屋に来て、ピアスを外すような行為をした。普通に考えてみればそういうことだろう。しかも、おとといか昨日。先一昨日にはこんなものはなかった……はずだ、きっと、たぶん。ゴミ箱漁って決定的な証拠でも見つけてやろうかとも思ったが、覗いた瞬間にファンデーションで汚れたティッシュと水分を失ってパリパリになったカラコンの残骸が見えて心が折れた。 オレは幸いなことに生まれてからこの方、26年間ずっと娑婆で生きているから彼女のひとりやふたりいたことだってあるし、従ってそのゴミが何なのかもわかってしまうのだ。

浴室から聞こえてくるシャワーの音がうらめしい。普通の男であれば5分、髪を乾かす時間を入れてもせいぜい10分かそこらで終わるはずのバスタイムがやたらめったら長いのも、そういうこと。一虎くんがオレに抱かれる準備をしている音だ。

素直に、信じられなかった。でも所詮、世の中そんなものなのかもしれない。芸能界きってのおしどり夫婦だって離婚するし、昔好きだった清純派アイドルはプロ野球選手とデキ婚した。 一虎くんだって男なわけだし、綺麗な顔に似合わずブツだって非常にご立派なのだから、たまにはソッチを使いたい時だってあるだろう。 チッと思い切り舌打ちをして、「クソが」と吐き捨てるように呟いた。

……頭では分かっているのだ。頭では。ただ納得できないというか、したくない。だってアイツはオレのもんだ。ムショから出てきて四六時中死にそうな顔ばかりしてたあの人に家を与え、仕事を与え、家でも職場でも24時間365日一緒にいるうちにそりゃ情とかいうものも芽生えちまうわけで、何の因果かオレは今では一虎くんの身元引受人兼上司兼恋人ということになっている。

もしかしたら本当にオレが気付いていなかっただけで、ずっと前からだったのかもしれない。洗面所にある綿棒とコットンも、最近クローゼットの中に増えた謎のカラーボックスも、全てが疑わしく思えてくる。 だから、 「ちふゆー」 ドライヤーとブラシを持って、つくづく目に優しくないよく分からない柄のパーカーに黒のダルダルのスウェット、下品な英語が大書されたTシャツを着てやってきた一虎くんににっこり笑いかけてやった。

「一虎くん。オレ知りませんでした」 「何が?」 「アンタ、女抱けたんだね。どうだった?まんこ気持ちよかった?」 そう言った瞬間、一虎くんの目が僅かに泳いだのをオレは見逃さなかった。 「……何言ってんのお前」 「これ。ベッドの横に落ちてましたよ」

少し力を入れればすぐにぽきりと折れてしまいそうな細いピアスをぐいと突き出す。親指と人差し指でつまみ上げて目の前でシャラシャラと揺らしてやれば、一虎くんは分かりやすくバツの悪そうな表情を浮かべた。

「言い訳なら聞くけど」 「けど?」 「ナメたこと抜かしたらバチボコにすっからな」 「お~怖い怖い」 一虎くんは苦笑いしたまま、ポリポリと頬を掻く。

どこの女だ? 週に1回の貴重な休みは店休日の前の日に一虎くんの家に泊まって一緒に酒を飲み、甘い夜を過ごす。次の日はふたりでどこかへ行ったり家でごろごろしたり、夜はだいたい家でオレが飯を作る。だいたいはそのまま流れでベッドに流れ込み、もう一泊して一緒に出勤するのが常だ。

だから可能性としてはアプリか、街で声を掛けられたか。 刑務所の中で何があったのかは知らないが、とにかく一虎くんは誰よりも自分の顔の利用価値をよく分かっていた。それでいて猫のように縄張り意識が強いから、家まで上げるということはそれなりに気心が知れた仲だということで、東卍のメンバーで宅飲みをする時でさえオレの家を使いたがるくらいなのに。

「……オレの。それ」 「おーし。表出ろ。裸ひん剥いてバチボコにしてやる」 「いやいやいやいやマジだって!ほんとに!」

ちょっと待ってろ、と言った一虎くんがクローゼットを開けた。ワンルームの、せいぜい一人用の服を置くことしか想定されていない狭い収納。ムショ上がりからかそんなに物は多くないけれど、オレの私物も押し込んでいるからクローゼットはそれなりにパンパンだ。一虎くんは見覚えのないカラーボックス(ご丁寧に不透明になっていて、中が見えないものだ)を取り出して、蓋を開けて見せてきた。 「ほら」 中には女物の、いかにもそのようなお店で衣装として採用されていそうなペラペラのメイド服と、派手なポーチに入れられた化粧品、ご丁寧にヘッドドレスや髪飾り、ピアスなどが詰まっている。

な?と自慢げにこちらを見るが、何が「な?」なのか分からない。 「コスプレセックスが好きってこと?今度やる?」 「違うって!オレが着るの!」 「……女装?」 愕然として頭に浮かんだ単語をそのまま述べると、一虎くんは「だからさっきからそうだっつってんだろ!!!」と顔を赤らめて絶叫した後、打って変わって蚊の鳴くような声で「言わせんなよぉ……」と呟いた。

風呂上がりにチンコ丸出しのまま缶ビールを一気する男と同一人物だとは到底思えない恥じらいに、ありかもしれない、と思った。 自分でも何を考えているんだと思わなくもないが、一虎くんは首から上だけ見ればものすごい上玉である。目は大きいし泣きボクロはエロいし、肌なんて刑務所でろくな手入れもしていなかったはずなのに、キスする時どれだけ至近距離で見ても毛穴一つ見えないすべすべのもちもち。 そもそも黒に金メッシュのロングヘアのお団子とかいう髪型が嫌味なく似合ってしまう時点で、女装も似合うに決まっている。

「見せて」 「は?」 「見せてよ。このフリフリのメイド服着てさ、化粧した一虎くん」 「するけど、でも、」 ね、と上目遣いで見上げると、一虎くんは「ぐぅ」とも「うぅ」とも聞こえる声を上げて涙目で唇を噛んだ。何その顔可愛い、と心の中で思っていたつもりだったけれど声に出てしまっていたらしい。一虎くんは「キモイって言ったら殺す」と言って、手に持ったままだったメイド服を奪い取った。 「便所行ってろ。準備すっから」 「えー寒いからヤダ」 「見てえの?見たくねえの?」 「それは見たい。オレ女の子が化粧してるとこ見るの結構好きなんです」 「オレ男だけど」 「これから女の子になるんでしょ?」

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結論から言えば、一虎くんはものすごい美人の女に化けた。すっぴんの状態が綺麗なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。 跳ね上げた黒のアイラインに、ごろごろ大きめのラメが入ったゴールドのアイシャドウ。頬には薄いピンクがふわりと乗り、グロスをたっぷり乗せた唇は一虎くんが喋る度にぷりぷりと艶めき、光を放つ。 髪型はオレのリクエストで、ツインテール。ゆったりとしたシルエットのメイド服をまとった一虎くんは、どこからどう見ても女だ。首元からちらりと覗く虎のタトゥーと、トラディショナルなロングスカートのミスマッチがたまらない。

一虎くんはふふんと自慢げに顎を突き出して胸を張り、「どーよ。オレ可愛くね?」と自信満々に宣った。 「いや、これは可愛いわ……」 「元カノより?」 「当たり前でしょ」