2017年12月24日

自分の身体から立ち昇る強烈な血の匂いが鼻をつき、ぼんやりとしていた脳を揺さぶり起こす。どれくらい時間が経ったのだろうか。戦闘は昼頃からはじまったというのに、あたりは夕方といっても差し支えないくらいに薄暮れていた。 16時半、というところか。西日が傷だらけの肌を焼いてジリジリと痛みが走る。言うことを聞かない身体を叱咤して、這うように建物と建物の間の陰に入り込んだ。右腕は吹き飛ばされて、激痛で身体が傾いて歩くことすらままならない。 右目の視界が真っ赤に染まる。ぱちぱち、とまばたきをするとその赤が余計に濃くなり、目に染みた。頭か瞼が切れているのだろう、血が出ているのか、とそこで初めて理解した。

乙骨憂太は素晴らしかった。呪力を学んで1年経っていないとは思えない学習能力、臨機応変な判断力、そして肝の据わり方。体術はまだまだ伸びる余地がありそうだが、逆にそれさえ身に付けてしまえばもう特級呪術師としてどこに出しても恥ずかしくない仕上がりになるはずだ。折本里香と併せてこちらに取り込めたならば、今度こそ私の家族たちの勝利は確かなものになるだろう。私がいなくても、彼らなら十分成し遂げてくれる。

家族たちが逃げる時間を稼ぐために、夏油傑が逃げていないことを高専関係者に分からせるよう、ここまで血の跡と残穢をそこかしこに残してきた。そろそろ血痕を辿って、誰かが自分を探し出す頃合いだろう。 それが誰かなんて、分かり切ったことだが。特級の名を冠する人間は4人、自分は呪詛師となったから呪術師は3名しかいない。九十九由基は変わらず海外にいて、乙骨憂太は先程の戦闘の揺り戻しでまだ動ける状態にないはず。そうなると自分を祓える人間は五条悟だけで、仮に2人が戦闘可能だったとしても自分を殺しにくるのは彼だろうという確信があった。

「遅かったじゃないか、悟」

素顔を見るのは10年ぶりだった。その美しい顔の造形自体は驚くほど変わっていなかったが、高専時代の人を食ったような馬鹿にしたような様子とはかけ離れた、落ち着き払った表情には確かに流れた歳月を感じる。五条悟を最強たらしめている六眼はかつてはサングラス、現在は白い目隠しで常に覆われ、ごく親しい人間か、祓われる間際の呪霊や呪詛師しかその蒼い目を見ることは許されていない。そんな彼が目隠しを取って現れた、つまりはそういうことだ。

かつて自分と並び立ち、双璧と呼称され、自分のことを親友と呼び、そのくせ自分を置いてひとり最強となった呪術師、五条悟。呪詛師に堕ちた身だ、いつか呪術師に殺されることはとっくに覚悟しているし、もしその日が来たとき、自分を殺すのは彼をおいて他にはないだろうということも分かっていた。

「傑」

聞き慣れた声が、自分の名前を紡ぐ。すぐる、と。 かつて私は、悟に毎日、累計何百回何千回と名前を呼ばれてきた。すぐるという同じ3文字を繰り返していく中で、悲しいかな、名前を呼ばれるだけで悟が何を言いたいのかが分かるようになってしまった。 だが今回、私は自分の名前を呼ぶ声から、何の意思も読み取ることができなかった。そこに込められていたものは、何もなかったから。ただ果てしない無が、そこにはあった。 ────いや、違う。ありすぎて、ないのか。君の領域と同じ。私との今までの思い出と、今日私と私の家族たちが与えた被害と、これから起こるであろうことが君の中でごちゃごちゃになっているのだろう。 ここまで分かってしまう自分がいっそのこと憎らしい。怒りすら覚えてしまうほどに。でも、どうしようもないのだ。

私たちは2年半、最強として、並び立つ双璧として、そしてお互いがお互いの唯一無二の親友として、それほどまでに濃い時間をともに、この学び舎で過ごしてきたのだから。

2005年 春 ~ 2006年 初夏

悟との初対面は、高専の入学式────桜吹雪が舞う中、石段の先で悟が振り返る、という少女マンガも真っ青なベッタベタなシチュエーションだった。 第一印象、何て綺麗な男だろう、と思った。 すらっとした長身に、この前まで中学生だったとは思えない完成した体躯。白い髪にふさふさの睫毛、蒼い目、形の良い鼻と薄い唇。家柄は呪術界の御三家だそうだ。

「────誰?同級生?」 「同級生だね、君の。な、五条悟クン?」 「あっそ。てか、何で俺の名前知ってんの、前髪野郎」 「2人しかいない同級生の名前覚えられるくらいの脳みそはあるつもりだけど」

遠回しに、君バカ?と揶揄ったのがバレたのだろう。はあ?と思い切り口を歪めて、「知ってるかと思うけど俺御三家ってゆー名家?の出身だからそんなに暇じゃないんだよね」と宣った。 なにせ一般家庭出身なもので、御三家については単語と何か凄いらしいという漠然とした知識しかなかったが、とにかく相当甘やかされて育てられてきたことだけは分かる。崇められるのが当たり前、と言わんばかりの尊大な態度を見ていると、鼻っ柱へし折ってやりたくなるのが人の性。

「確かに、私だけ名乗らないのは不公平だね。夏油傑だ。名前だけでも覚えて帰ってくれると嬉しいな、御三家の五条悟クン」

立ち止まった悟に並ぶように、石段を昇る。同じ段まで上がったところで、ようやく視線がかち合った。彼も180はあるのか。もしかしたら自分よりも大きいかもしれない。常に見下ろすことが常だったので、同じ視線で会話をすることに少し違和感を覚える。

「ここまでコケにされたら流石に猿でも覚えるわ。楽しそーじゃん。これから4年間よろしくなあ、夏油傑クン」

当時よくかけていた、ブルーがかった色の薄いサングラスをずらして、15歳の五条悟はガラ悪くヒヒッと笑った。