世田谷の私鉄駅から細道を曲がり曲がって、徒歩10分程度のところにそのピアススタジオはあった。 外観は白塗りで随所に細工が施され、1階にはいかにも有閑マダムが好みそうな食器や家具を取り扱っているセレクトショップ。本当にこんなところにピアススタジオなんて胡散臭いテナントが入ってるわけ?と半信半疑で螺旋階段を上る。 2階には美容院、その隣には最近流行っているらしいシーシャ屋を通り過ぎた突き当りのドアには、いやにお洒落なフォントで書かれた看板がぶら下がっていた。≪Ohrringe≫という店名の横に、ピアスがたくさん開いた小さな耳のイラスト。たぶんここだろう、とドアノブに手を掛ける。

あ、ピアス開けよ、と思ったのに大した理由なんてなかった。 ほぼ幽霊だったサークルも引退し、就活も終わってあとは卒論を残すのみ。性格が災いしてか、友達もそれほど多くない。必修単位も全て取り終えていて、バイトと週1回のゼミを繰り返す生活に飽きが来ていた、というのもある。

とにかく刺激が欲しかったのだ。 寝て起きてバイトに行って、帰ってきて風呂に入って寝る、たまに大学に行くだけの退屈な日常の繰り返し。せっかく人生のモラトリアムなんて言われている大学生なのだ、最後の1年くらい思い切り遊びたい、と思うのはごく自然な感情だった。 思い立ったが吉日。給料はちょうど一昨日振り込まれたばかりで、珍しく財布にも余裕があった。引っ越してきてからこの方、敷きっ放しの万年床で手元の端末をダラダラと操作する。ディスプレイに表示された時間は昼をとっくに過ぎていて、カーテンから差し込む陽射しは容赦なく目を抉る。平日のこの時間にゴロゴロできんのもあと1年かー、と見当違いな感傷に浸りながら、ブラウザに表示された検索結果を流し読む。 "ピアス 初めて"という捻りもクソもない検索ワードでも、世界中に張り巡らされたネットの海は膨大な情報を提供してくれる。

ピアッシングの方法としては、大きく2つに分けられるらしい。自分で開けるか、金を払って開けてもらうかだ。 自分で開けられるのであればそちらのほうが安上がりだろう、とセルフピアッシングとやらの解説サイトを見てみたが、初心者にはなかなかにハードルが高いようだった。耳に自分で針を刺すなんてできそうもないし、ピアッサーは不具合が多いらしい。ピアス穴は貫通しても機械が外れなかった、手で無理やり外そうとしても外れなくて病院に駆け込んだ、という体験談には肝が冷えた。………これは痛い。たぶん、めちゃくちゃに痛い。しかも病院では普通に金をとられた挙句、ピアスホールはぐずぐずに膿んだとある。 いくら安上がりだとしてもこんなリスクはおかしたくない。金と引き換えに安全さを買うことに決め、ピアス開けに豊富な実績を謳う病院のサイトを巡る。 「たっか!」 そこに書いてある値段にさっきとは別の意味で背筋が凍った。保険適用外で全額自己負担、片耳5000円、両耳1万円って何の冗談?いくら安全でも高すぎだろう、ぼったくりって言われても文句は言えない。病院もナシであれば残る選択肢はピアススタジオしかなかった。

ピアススタジオとやらは初めて聞いたが、どうやらピアスを開けてくれる専門店らしい。専門家だけあってピアス知識が豊富で相談にも乗ってくれるし、ニードルで開けるから病院でピアッサーを使って開けるより穴の安定が早い、らしい。都内であれば割とどこにでもあるらしいが、折角だったら有名なところのほうがハズレがないはずだ。検索エンジンでトップに出てきたOhrringeというスタジオのページを見てみれば、家からのアクセスは悪くなかった。家から最寄り駅まで5分、電車は(急行に乗れたならば、の話だが)1回乗り換えで15分、駅からスタジオまでは10分。近い距離でも遠い距離でも移動に30分はかかる東京で、ドアドアで30分はむしろ近い方だ。 今日の予約は全て埋まっている。明日も、明後日も、全ての時間に×マークがついていた。なかなかな人気店のようで次の空きは3日後、ちょうどシフトが入っていない日だった。善は急げとばかりに早速予約を入れた。

そして冒頭に戻る。

中には店員がひとり、カウンターの椅子に座って、ゆったりと穏やかな笑みを浮かべていた。長い黒髪をハーフアップにまとめ、オーバーサイズの黒のシャツに同じく黒のパンツ。口調と動作だけで言えば高級レストランのボーイのようだが、綺麗に整えられた眉毛の上下にシルバーのピアスが鈍く輝き、耳にもこれでもかというほどにピアスが付いている。捲られた袖からは鍛えられた筋肉が覗いて、左腕の内側には蛇と羽のタトゥーが施されていた。

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」 「あ、ハイ。五条です」 「五条悟様ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

店内はあたかもアクセサリーショップのようで、ピアスが大量に並べられているショーケースと、たいそう座り心地が良さそうな大きな黒いベルベットの椅子が鎮座している。流れているBGMも海外の賑やかな音楽ではなく心が落ち着くゆったりとしたジャズで、先入観でどうせアングラの感じなんだろ、と想像していた悟にとっては若干拍子抜けな空間だった。

「本日担当します、夏油傑です。今日はどちらにピアッシングを?」 「耳たぶ、1個ずつで」 「ロブでいいかな?」 「……たぶん?」 「ははっ、ピアス開けるの初めて?」 「ん」 「初めての方はやっぱりロブだよね。じゃあ、ファーストピアスを選んで」

最初は固すぎるくらい固かった口調が徐々に解けて、それに呼応するように肩の力が抜けていく。知らない間にガチガチに緊張していたらしい。 ショーケースの中には大きさも色もそれぞれなピアスが綺麗に陳列されていた。赤、白、透明、青、水色、紫、モスグリーン、ピンク、黄色、ゴールド、黒────中でもシルバーのものが多い。形も所謂ピアスと言われて想像するような針の先にキャッチがついているものだけではなくて、丸形や変な曲線を描いていたり、何に使うのか分からないが1本の長い棒の上下に同じくシルバーのボールが刺さっているもの、とさまざまだった。選んで、と言われても何をどう選べばいいのか分からない。

とりあえず地味すぎるのは嫌だからある程度大きさがあって、白だと肌と同化してしまいそうだからそれ以外で、青も目の色に揃えたみたいだからちょっと……、と中身を物色していくうち、あるピアスに目が吸い寄せられるように止まった。 天然石で作られているのか、深みのある黒色が美しい丸いピアス。他のものよりもかなり大きくて、存在感もバッチリだ。 「あ、決まった?」 「うん。これ、耳たぶに付けられる?」 「これはロブ用だから逆に耳たぶにしか付けられない。これいいよね、私も好き」 大きな手に不似合いな丁寧さで、ピアスを取り出してトレイに置く。黒いベルベットのトレイの上でも主張を失わないピアス。めっちゃいいじゃん、これが耳についたらどんな感じなんだろ。病院の症例ではこんなにお洒落なピアスはなかったから、やっぱりここ来て良かったな、と素直にそう思った。

「次はマーキングね。このペンで、ピアス開けたいところに印つけてみて。耳たぶの真ん中じゃなくて、下の方に開けるのが個人的にはおすすめ」 渡されたのはアイライナーと、シンプルな手鏡。言われたとおりに耳たぶの下めの位置にチョンチョン、と印をつけて左右対称を確認する。問題ないかな?という視線を向ければ、うん、良い位置だね、と夏油はにっこり笑って頷いた。 じゃあ開けるよー、とこれから人の身体に穴を開けるとは思えないほどの気楽さで、夏油が針のようなものが入った袋を破った。手際よく自身の手と耳たぶを軽く消毒して、軟膏のチューブに針を1回通す。 節くれだった指が左の耳たぶを挟み込んで固定する。横目で窺った夏油は当たり前だが至極真面目な顔付きで、針の位置を調整していた。

その瞬間、体中にぶわっと汗が噴き出る。初めてのピアス、という経験に確かに緊張はしていたが、明らかにそれ由来のものではない。心臓の音が五月蠅い。身体から心臓が突き破って出てしまうのではないかと思うくらいに。耳たぶから夏油にこの振動が伝わったら嫌だな、と思う。冷静に考えてそんなわけはないのに。 元々の顔の造りのせいもあるのだろう。にこにことした笑顔から一転、細い目を眇めているさまは人が変わったように人相が悪くて、でもそれが一周回って妖しい色気を醸し出している────同性の男に、なんて大概おかしいけれど、それは自分でコントロールできる区分の感情ではないことだけは分かった。 「汗すごいね。緊張してる?」 真剣な顔は崩さないまま、可愛いね、と耳元で囁くテノールの声色に、心臓の鼓動が余計に脳内に響く。染み出してきた生唾を飲み込む。ゴクリ、という音が部屋中に響き渡った、気がした。

ここまで来れば、認めざるを得なかった。この男が好きだ、と。 今まで抱いたどの女にも、付き合ったどの女にも、こんな感情は持たなかった。向こうから言い寄られて、寝て、身体と顔の具合が良ければ付き合って。適当に抱いてそれっぽい言葉を囁いて、飽きたら捨てる。来る者拒まず去る者追わずという言葉がぴったり。好きにならないよ、と最初に告げていたにも関わらず本気になられたり、1回寝たくらいで彼女面してきたり、別れたいと告げたら化粧をボロボロに溶かしながら泣いて縋ってきたのを馬鹿みたいだ、なんて思っていたのに。 この男が自分だけに笑いかけたら。この逞しい指と自分の指とを絡め合って、涼やかな目が伏せられ、薄い唇にキスを落とされる。好きだ、と熱の籠もった甘い声が耳元で囁いて、俺も、なんて返しちゃったりして、ふたりで、息を潜めて笑いあうような、そんな暮らしを送りたい、と思ってしまったのだから仕様がない。

ぴと、と針の先端が耳に当てられる。 「じゃあニードル刺すね」 温度を失った声が、3,2,1、とカウントダウンを始めた。

ピアッシング自体はびっくりするほど痛くなかった。ぎゅっと針を押し込まれた瞬間は全然痛みはなくて、貫通の瞬間だけ微かにプチ、という感覚がした程度。針からピアスに付け替える作業も気付いたら終わっていて、手鏡に映った左耳には確かにさっきまでショーケースに並んでいた黒いピアスが光っている。 「すっげー………」 「どうだった?痛くなかった?」 「ぜんっぜん痛くなかった!夏油さんめっちゃ上手いな!……って、プロだから当たり前か」 「嬉しいね、ありがとう。五条さんは耳たぶ薄いから開けやすいってのもあるけど」 「え、俺耳たぶ薄いの?」 「人よりもだいぶね。私はかなり福耳だから比べられないけど」 ほら、と指さす先を見れば確かに、夏油の耳たぶは厚かった。輪郭に沿うように3個、小さなブラックダイヤのピアスが装着されている。軟骨には5個。 「うわすげえ、8個付いてる。ロブと軟骨どっちが痛かった?」 「私は耳たぶがコレだから、ロブはかなり痛い方だった。部位によるから一概には言えないけど」 「マジか」 「うん、マジ。でも五条さんだったらどうかなー、たぶん軟骨の方が痛いと思う。耳たぶは薄いけど軟骨は人よりも分厚そうだし」 雑談を交わしながらも、夏油の手は次の準備に余念がない。手と耳を消毒した後に袋を破って針を取り出し、軟膏に潜らせる。 「右も開けるよ」 「うぃー」 2回目ともなれば痛くないことは分かっていたから、ピアッシングの最中にスマホを弄る余裕すらあった。

「開けたてのピアスホールは生傷みたいなものだから、ちゃんと毎日消毒してね。お風呂上りに軟膏をピアスホールの周りに塗って、動かしても痛くないようになったらピアスをくるくる回してあげて」 「はーい」 「キャッチは取れないように固めの付けてるから、もし自分で付け替えられなかったらまたお店に来て。無料で交換できるから」 「え、タダなの?」 「ああ、外すのがタダってこと。自分でピアス持って来てくれてもいいし、もしここでセカンドピアス買うんだったらその分のお代はもらうよ」 差し出された金属製のトレーに、ピアッシング代として4000円を渡す。ピアスのデザインが好きに選べて、身体に穴を開けているというのに痛みもほとんどない、それでいて病院よりもはるかに安上がりで同じくらい安全。スタジオってめっちゃいいね、と純粋な感想を述べれば、私の腕がいいからね、と冗談めかして返された。

「またピアス開けたくなったらおいで。ロブ2連も可愛いし、軟骨とかボディピアスもやってるから」 アフターケアの方法が書かれた紙と一緒に差し出されたシンプルな名前だけの名刺には、ピアススタジオには不似合いな明朝体で「夏油傑」と書かれていた。

(────また、来るだろうな) 胸に過ったのは、予感ではなくてほとんど確信に近いもので。案の定その日から、五条悟はピアスに落ちた。どうせ社会人になったら全部外さなきゃいけないんだ、大学生の間くらい耳に穴がたくさん開いていたっていいじゃないか。 ロブの3個目だけは自分で開けた。さすがに毎回スタジオに通うのはストーカーみたいでキモいよな、と夏油の処置をなぞるように開けてみたはいいものの、この前のは何だったんだと思うくらい刺すのは痛いわ、ピアスとの付け替えは出来ないわで痛い目を見てからは素直にOhrringeを予約するようになった。穴を開けるという口実で、夏油にも会える。